豊川で生まれ、豊川で育ったぼくは、他の豊川の皆さんと同じように、「豊川海軍工廠」に思い入れがあります。
それは他の地域で育った人が、その地域で起きたデキゴトを深く学ぶように、小学生の頃から授業や自由研究、折りに触れ「豊川海軍工廠」と「空襲」、そして何より「戦争の悲劇」について考える機会が多かったからです。
ぼくの実家は旧海軍工廠の直ぐ側にあって、遊び場だった「桜ヶ丘ミュージアム」にも海軍工廠の遺品や資料などが常設展示されているので、無意識にも意識的にも、豊川海軍工廠を感じ・考えて大人になりました。
高校を出て、名古屋で暮らすようになり、劇団を立ち上げ、曲がりなりにも「プロ」と呼ばれるようになり、いつかこのふるさとの話を書くことになるんだろうなと考えるようにはなっていたものの、地元で生活していたときほど、豊川海軍工廠の事を考える時間は多くはありませんでした。
豊川では毎年8月、空襲で亡くなった方の慰霊祭や海軍工廠を舞台とした作品が上演されています。でもその事を他の地域の人はあまり知りません。豊川で生まれ育ったぼくでさえ、意識して探さなければその情報と出会うことはありません。
同じように、他の地域で起こったデキゴトを、豊川に暮らしていた時には知りませんでした。「東京大空襲」「原爆投下」そういう大きな見出しは知っていても、細かなデキゴトを僕らは知りません。
例えば。
ぼくは今、岐阜県の多治見市というところに住んでいます。ここも戦時中多治見駅が空襲にあい、近くの小学校も機銃掃射を受けました。当然、列車を利用していた一般客にも死傷者が出ています。
ぼくはこのデキゴトを知りませんでした。
知らないことが悪いのではありません。が、ぼくは自分のふるさとが巻き込まれた「戦争」を改めて深く知りたいし、そして知ってほしいと思いました。さっきの多治見空襲の死亡者数は豊川空襲の死亡者数よりずいぶん少ないです。でも、死んだ人間の多い少ないではなく、この国が「戦争」をし、各地が「戦場」と化したこのデキゴトを、どうにか舞台にしたい、そう思うようになったのです。
「ふるさとでのデキゴトである」という思い入れは、ひょっとするとその筆を誤らせるかも知れないと考えています。海軍工廠でのデキゴトだけをピックアップし、美化したり過剰に悲惨にしたり、各方面に気を遣って、本来キチンと描かなければならない「戦争は嫌だ」という誰しもが思う普遍的な感情を描けなくなっては身も蓋もありません。
なので今回、豊川空襲を題材に描きつつも、戦時下における特定の地名、固有名詞を極力省くようにしました。
豊川「だけ」の話ではないのです。工廠も、勤労も、出征も、空襲も、あの頃の日本のどこかに毎日必ずあって、そしてそこに生きていた人たちがいる。
そんな作品になればと思っています。
ぼくも、ぼくの親も戦争を知りません。でも、戦争は今も世界のどこかで起きています。戦後70年が過ぎた今、戦争を知らないぼくたちがどう戦争と向き合い、描いていくのか。
物騒な言葉を使えば、この机の上で「ある空襲の話」を書くということは、戦争は嫌だ、戦争はゴメンだと常に思っているぼくの、ひとつの戦いなのです。